2020-05-27 第201回国会 衆議院 内閣委員会 第14号
ところが、その後、光孝天皇がいよいよ崩御ということになったときにも、その後を継ぐにふさわしい皇族があらわれず、源定省が再び皇籍に戻って、宇多天皇として即位をしているということになります。 そして、赤色のもう一つ下のところでありますが、実は、六十代醍醐天皇、この宇多天皇が臣籍にあったとき生まれた皇子、源維城が、宇多天皇の後、第六十代の醍醐天皇に即位されています。
ところが、その後、光孝天皇がいよいよ崩御ということになったときにも、その後を継ぐにふさわしい皇族があらわれず、源定省が再び皇籍に戻って、宇多天皇として即位をしているということになります。 そして、赤色のもう一つ下のところでありますが、実は、六十代醍醐天皇、この宇多天皇が臣籍にあったとき生まれた皇子、源維城が、宇多天皇の後、第六十代の醍醐天皇に即位されています。
○池田政府参考人 継体天皇は、第二十六代天皇でございますが、先代の第二十五代武烈天皇が崩御されたときにお世継ぎがなかったことから、継体天皇が迎え入れられ、即位したものでございます。 武烈天皇と継体天皇は、ともに応神天皇の五世孫でございまして、親等では十親等の隔たりがございます。
○麻生国務大臣 これはもう、一九八九年、平成元年、このときからいろいろなものが大きく変わっていって三十数年がたったことになりますけれども、やはり、バブルがはじけて三万八千九百十五円をつけていた株価が一挙に割れたとか、消費税が入ったとか、あのころ、天安門事件が起きて、天皇陛下の崩御以降、松下幸之助が亡くなって、昭和でいえば、美空ひばり、手塚治虫、皆あの年に亡くなっていますから、いろいろな意味であの年は
やはり景気とか病気とかお天気とか、「気」がつくやつは、これは気分の問題が極めて大きい部分を擁しますので、やはり令和という新しい御代が始まるというのは、前の平成のときは昭和天皇の崩御に伴う元号の改正でしたけれども、今回はそういうわけではありませんので、気分的には明るいというのが一般的に言われているんだと思いますので、それが消費にどうつながっていくかというのは、これから更にいろいろ努力をせねばいかぬところだと
平成は、崩御という言葉から始まって、時代背景として、当時、レンタルビデオ店というのがたくさんあったかと思います。そのレンタルビデオ店のビデオが全て借り出されてというような状況でした。ところが、令和は、今上天皇の退位で新天皇即位というこの明るいムード。
昭和天皇の御崩御という悲しみの中で始まった平成とは異なり、今回は祝賀ムードで令和の幕あけを迎えることができたことに、改めて、御自身の健康よりも国民の幸せを願う大御心に感謝と尊崇の念が自然と湧いてまいります。 同時に、この世界に誇る日本の皇室の安定的な皇位継承策を検討することは、我々に課せられた大きな課題だと改めて思います。
○今福政府参考人 法令の改廃等に伴う恩赦があったかどうかということでございますけれども、例えば、昭和天皇御崩御の際の恩赦にございました。
○足立信也君 我々の記憶にあるのは昭和から平成になったときで、これは昭和天皇御崩御という事態で行事に追われた感は否めないと思いますけれども、今回はやっぱり、生前退位でかなりの準備期間があって、しかも新元号の発表から実際に元号が変わるまでも一か月あるというような中で、やっぱり違った対応があってもいいのかなと、私自身はそう感じました。
したがいまして、まず最初に、新元号になるというのが決まったのは、ついこの間の話でありまして、御存じのように、いわゆる陛下が崩御される前にいかがなものかという議論がなされておりました、つい最近のことだと、御存じだと思いますが。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) 平成も今回も、新憲法、現行憲法後の戦後の改元ということになるわけでございますが、前回、平成に改元をされた、小渕当時の官房長官が発表されたときは、まさに天皇陛下の御崩御を受けて直ちに改元がなされたわけでございまして、発表され、その後すぐに改元がなされたのでございますが、今回の場合は一か月前に改元を発表させていただいたところでございます。
この度は、天皇の退位と即位があることということからすると、直近では百十九代光格天皇から百二十代仁孝天皇への受禅践祚の例があり、前回の昭和から平成へは、いわゆる天皇の崩御がございましたことから諒闇践祚でありました。それぞれに皇室にはお考えがあることと思います。 繰り返しますが、現在の天皇の地位は、国民主権の下、憲法と法律によって決まっております。
これは過去の天皇陛下の、昭和天皇の崩御のときにも行われましたし、あるいは今上天皇陛下の即位のときにも恩赦というものは行われましたけれども、なかなか言葉としては理解をされていない方も多いと思いますが、恩赦というのはどういうことでございますか。
お言葉は、単に御自身の退位の御意向をにじませたことにとどまらず、天皇の崩御と即位に伴う行事が同時に進行することによる負担への懸念、象徴天皇の務めが安定的に続いていくことへの願いなど、率直なお気持ちを述べておられます。 私は、今回お言葉を何度も読み返しましたけれども、国民の共感を得たこの内容がどれほど実現に向かっているのかと、そのことを考えるところです。
いろいろな議論が当然あるかなと思うんですけれども、我々国民としては、やはり、明治以降初めて、崩御されて御代がかわるということではないということで、本当に初めてのことだとは思うんですけれども、明治以降では。
他方、皇室典範第四条の規定による即位は、天皇陛下の崩御に伴うものであり、御即位の祝意を表する措置をとることは難しかったのであります。このため、今上陛下の即位の日は休日とはしておりませんでした。
○三上政府参考人 平成度のときは昭和天皇の御崩御に伴って即位が行われたということでございますので、即位礼正殿の儀を即位の日に行おうとすると、それはすなわち御崩御された日ということになろうかと思いますけれども、喪に服する期間ですとか、それから、即位礼正殿の儀と申しますのは、平成でございますれば二千数百人を内外からお招きするようなことでもございますので、実際上の問題としては非常に準備の時間もかかるわけでございますので
私も、昭和天皇陛下の御崩御の深い悲しみとともに、新しい御代が始まることを感慨深く思った記憶がございます。印刷物などの事務的な問題とは別に、大喪の礼など、はっきりとした、いわゆるわかりやすい区切りがない中で御代がかわる、この際に、我々国民の心の持ちようが大切だろうと考えております。
皇位継承の原因を崩御に限るか否かという問題は、戦後間もなく現行の皇室典範を制定する際にも検討され、結果として否定されたとのことでありますが、当時にあっては、高齢化社会の諸課題が今ほど現実的で切実な問題ではなかったためかもしれません。しかし、天皇陛下が御公務を果たし得ず、国民との接点もない状態が長時間続く場合でも、常に終身在位制とするべきでしょうか。
今上天皇は、戦中を旧日本帝国憲法下で皇太子として、戦後は人間宣言をして地方行幸を繰り返した昭和天皇とともに日本国憲法の下での新しい皇室での皇太子としての役割を務められ、昭和天皇崩御後、平成の時代を日本国憲法の国民統合の象徴としての象徴天皇を体現してこられました。
○国務大臣(菅義偉君) 皇位継承事由を崩御に限定しているのが現行の皇室典範であります。制度上退位を予定していないのでありますから、天皇陛下の退位は今回の法律で初めて実現をされることになります。ですから、退位に向けた各方面との調整というのはこの法案が成立した後に行うことになるわけであります。
○国務大臣(菅義偉君) 皇位継承事由を崩御に限定する現行の皇室典範は、制度上、退位を予定しておらず、天皇陛下の退位は今回の法案によって初めて実現されるものであります。したがって、退位に向けた各方面との調整は法案成立後に開始をすべきものと考えます。
初めて退位をしたとされるのは第三十五代の皇極天皇で、今上天皇が百二十五代であることを考えますと、この間、約九十代のうち五十八方と、六割以上の天皇が崩御によらず退位をされてまいりました。日本の長い歴史の中で、退位はむしろ恒常化し、常態化し、伝統に合致するという点でも、退位制度の恒久化が必要と私どもは考えました。
○菅国務大臣 皇位継承事由を崩御に限定している現行の皇室典範は、制度上、退位は予定しておらず、天皇陛下の退位は、今回の法案によって初めて実現をされるものであります。したがって、退位に向けた各方面との調整は法案成立後に開始すべきものであります。 その上で、天皇陛下の退位は憲政史上初めての事柄であり、退位に向けて準備が、御発言がありましたように、必要になります。
○菅国務大臣 皇位の継承事由を崩御に限定しております現在の皇室典範は、制度上、退位を予定しておらず、天皇陛下の退位は、今回の法案によって初めて実現をされるものであります。したがって、退位に向けた各方面との調整は法案成立後に開始すべきものであります。
この年は、昭和天皇が崩御され、昭和から平成へと元号が変わった年で、消費税の導入やリクルート事件、農産物の自由化など大問題が相次いで起こり、それが与党自民党に大逆風となって議席が激減した中、私は地元の皆様を中心に熱心な御支援により首位で当選させていただき、感激いたしました。改めて感謝申し上げる次第です。
前年には、昭和天皇が崩御され、元号が昭和から平成に変わり、四月には消費税が施行されました。また、十一月には日本労働組合総連合会が発足しました。海外においては、ベルリンの壁が崩壊し、東西の雪解けが始まりました。平成三年にはソ連の実質的な解体という大きな出来事がありました。このように、国内外において時代の大きな変化が訪れていました。 初当選は、民社党でした。
そういう中で、人的交流というか、これから是非、私のはスポーツ交流が基本ですが、資源外交も含めて、キューバという国、非常に、天皇陛下が崩御されたときに半旗を翻したと、そういう友好的な国なので、是非訪問されて、今回は無理でしょうけど、お時間があればまたその辺の友好を深めていきたいと思っていますので、最後に一言。
昭和二十年から最初の十五年は戦争反省、わだつみの時代、昭和三十五年から次の十五年は上を向いて歩こうの時代、高度成長期、次の十五年、ちょうど昭和天皇が御崩御なさってバブルが崩壊したその間の十五年というのが、伝統、文化見直しの時代というふうに山本七平さんはおっしゃっておられました。
日本で初めてタクシーが登場したのは銀座で、一九一二年、明治天皇崩御の直前だったそうです。それ以来、全国に広がりを見せたものの、料金体系がばらばらで、利用するには相当の勇気とそして経済力を要したそうです。そこで登場したのが大阪一円を代金一円均一で走るタクシーで、それを円タクと呼んだそうです。そして、それが同一地域統一運賃のはしりだったということです。